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2009-06-30 21:05 | カテゴリ:ショパン
スタニスラフ・ブーニン
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

スタニスラフ・スタニスラヴォヴィチ・ブーニン (ロシア語: Станислав Станиславович Бунин, Stanislav Stanislavovich Bunin:1966年9月25日-)はロシアのピアニスト。
祖父はゲンリフ・ネイガウス、父はスタニスラフ・ネイガウス。

日本では最も有名な外国人ピアニストの一人。
ピアノコンクールとして非常に権威の高い、ショパン国際ピアノコンクール(開催地:ワルシャワ)で第11回大会(1985年10月1日~21日)にわずか19歳で圧倒的な優勝をした。
これをNHKが特集番組を放送したことを端に、当時「ブーニン・フィーバー」(または「ブーニン現象」)が巻き起こり、これによって日本のクラシックファンの裾野を広げた。
専門家の間では演奏解釈はどちらかというと異端的と評され、ピアノ界で主流派とはみなされなかったが、これまでにない非常にメリハリのある演奏はクラシック音楽に疎遠な人々に歓迎された。
「ブーニン・フィーバー」を期にブーニン自身は日本を非常に好意的に思うようになり、頻繁に来日演奏会を催している。
妻は日本人であり、家も日本にある。

北海道南西沖地震の際には、ピアノを抱え奥尻島を訪問し、演奏会を行った。
その時のピアノは奥尻町立宮津小学校に寄贈され、同島では丁重に保管されている。

経歴
1966年、ソ連時代のモスクワ生まれ。
父は当時の名ピアニストスタニスラフ・ネイガウス、祖父はモスクワ音楽院の名教授でギレリス、リヒテルの師でもあるゲンリフ・ネイガウスである。
母もまたピアニストでモスクワ音楽院出身で同教師でもある。
4歳から母にピアノの手ほどきを受け、その後も英才教育をうける。
そして、17歳にしてロン=ティボー国際コンクール(開催地:パリ)で最年少優勝を果たす。
翌年1984年よりショパン研究家のセルゲイ・ドレンスキーに師事した。
19歳でショパン国際ピアノコンクールに優勝したときは「協奏曲賞」と「ポロネーズ賞」も同時受賞している。
1988年6月に西ドイツ(当時)に亡命した。ヨーロッパ各地での活動に駆け回る。
89年に東芝EMIと契約し、その最初のリリースCD「バッハリサイタル」が90年の日本ゴールドディスク大賞を受賞した。
最も得意分野のショパンは勿論、ベートーヴェンのピアノソナタ、シューマン、J. S. バッハ、モーツァルトとレパートリーを広げている。
その輝かしい経歴から若手ピアニストと言ってはふさわしくないほど早熟で、デビューからこれまでの演奏解釈の変化も注目に値する。

個性
外見上スラッとした容姿は魅力的で、ソフトな印象と演奏中の横に振る体の動きがファッション的で、かなりの女性ファンが多い。
しかし演奏の方はどちらかと言うとドラマチックに設定をし、説得力のある演奏を追い求めた。
その結果テンポなどが遅めになりすぎたり、またスフォルツァンド等が鈍くなったりとテクニックの面では端正だが、個性に欠けるとして一方では批判の声もあった。
彼の有名な演奏ではショパンの24のエチュ-ド等が評価が高い。

練習曲第12番 革命のエチュード (ショパン)
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

フレデリック・ショパンの練習曲ハ短調作品10-12(Étude Op.10, No.12)は『革命のエチュード』(かくめい - )として知られるピアノ独奏のための作品。
1831年頃に書かれた。
最初の練習曲集(作品10)の12番目として出版され、友人フランツ・リストに献呈された。

歴史
この練習曲は11月蜂起における1831年のロシアによるワルシャワ侵攻にほぼ同くして公表された。
ショパンは肉体的もろさのため暴動に参加することはできず、その怒りの感情を代わりにそのとき作曲した多くの作品にぶつけている。
その中で最も注目に値するのが、この革命のエチュードである。
失敗に終わったポーランドのロシアに対する革命が終結したとき、ショパンは「これは私に多くの痛みを残した。それを分かっていたのかもしれない!」と泣いた。

技術
左手のアルペジョと滑らかなポジションチェンジの練習である。
右手はユニゾンのときに一定の器械的技巧を必要とするのみならず、忙しい左手の上で十分に歌い、聞かせなければならず、高度な肉体的精神的技術を要する。
スパン(親指と小指との間隔)が大きい奏者には有利である。
ただでさえ低音が激しく動くので雑音に聞こえる場合も多い。
落ち着いた演奏が必要である。

最初の小節で必要とされる技術は、非常に高速で、長く激しく下降する和声的な短音階を演奏することであり、その長さとこれら急速なパッセージが多く繰り返される点で、他の練習曲とは異なる。

また、左手のパッセージは速いものの、それ程難しいポジションチェンジは存在しないので、ショパンエチュードop10 op25の中では演奏が容易な方である。

影響
この曲は同じ調で書かれたベートーヴェンのピアノソナタ第32番を暗示させる。
この曲の77-81小節と、ショパンが大いに感嘆したことで知られているベートーヴェンのピアノソナタ第32番第一楽章150-152小節が類似している。

2008-06-04 16:55 | カテゴリ:ショパン
スタニスラフ・ブーニン
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

スタニスラフ・スタニスラヴォヴィチ・ブーニン (ロシア語: Станислав Станиславович Бунин, Stanislav Stanislavovich Bunin:1966年9月25日-)はロシアのピアニスト。
祖父はゲンリフ・ネイガウス、父はスタニスラフ・ネイガウス。

日本では最も有名な外国人ピアニストの一人。ピアノコンクールとして非常に権威の高い、ショパン国際ピアノコンクール(開催地:ワルシャワ)で第11回大会(1985年10月1日~21日)にわずか19歳で圧倒的な優勝をした。
これをNHKが特集番組を放送したことを端に、当時「ブーニン・フィーバー」(または「ブーニン現象」)が巻き起こり、これによって日本のクラシックファンの裾野を広げた。
専門家の間では演奏解釈はどちらかというと異端的と評され、ピアノ界で主流派とはみなされなかったが、これまでにない非常にメリハリのある演奏はクラシック音楽に疎遠な人々に歓迎された。
「ブーニン・フィーバー」を期にブーニン自身は日本を非常に好意的に思うようになり、頻繁に来日演奏会を催している。妻は日本人であり、家も日本にある。

北海道南西沖地震の際には、ピアノを抱え奥尻島を訪問し、演奏会を行った。
その時のピアノは奥尻町立宮津小学校に寄贈され、同島では丁重に保管されている。

個性
外見上スラッとした容姿は魅力的で、ソフトな印象と演奏中の横に振る体の動きがファッション的で、かなりの女性ファンが多い。
しかし演奏の方はどちらかと言うとドラマチックに設定をし、説得力のある演奏を追い求めた。
その結果テンポなどが遅めになりすぎたり、またスフォルツァンド等が鈍くなったりとテクニックの面では端正だが、個性に欠けるとして一方では批判の声もあった。
彼の有名な演奏ではショパンの24のエチュ-ド等が評価が高い。

幻想即興曲
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

幻想即興曲(げんそうそっきょうきょく、Fantaisie-Impromptu)作品番号66は、ポーランドの作曲家フレデリック・ショパンが1834年に作曲したピアノ曲である。
ショパンが作曲した4曲の即興曲のうち、最後に出版されたもの。

数あるピアノ曲の中で、最もよく知られる作品のひとつ。
現在の版はショパンの死後友人のユリアン・フォンタナが改稿し発表したもので、「幻想」の題も彼によって付けられた。

主部では、左手は1拍が6等分、右手は1拍が8等分されたリズムとなっている。
この場合、本来1拍を(6と8の最小公倍数である)24で分割してリズムを取らなければならないが、要求されたテンポでは24分割でリズムを取らずに演奏しても自然なリズムに聞こえる。

2008-06-02 00:45 | カテゴリ:ショパン
ウラディミール・ホロヴィッツ
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ウラディミール・サモイロヴィチ・ホロヴィッツ(Vladimir Samoilovich Horowitz、1903年10月1日 - 1989年11月5日)は、ウクライナ生まれのアメリカのピアニストである。
名指揮者として知られるアルトゥーロ・トスカニーニの娘婿にあたる。

生涯
ホロヴィッツ自身は、ウクライナのキエフで生まれたと主張していたが、隣のジトームィル州の小都市ベルディーチウで生まれたとする説が有力である。
彼は1903年に生まれている。しかし、軍隊で彼の手が傷つくことを恐れたユダヤ系の父は、徴兵から逃れられるように生まれ年を1年遅い1904年として申告した。
1904年を生まれ年とする文献が散在するが、権威筋は1903年が彼の正しい生まれ年であるとしている。幼少の頃よりアマチュアピアニストであった母から手ほどきを受け、1912年にキエフ音楽院に入学し、1919年に卒業。
卒業時にはラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を演奏している。翌1920年には、初のピアノ リサイタルを開催、ソ連(現ロシア)において国内ツアーを開始し、しばしばヴァイオリニストのナタン・ミルシテインとも共演した。
1926年には初の国外コンサートをベルリンで開催、続いて、パリ、ロンドンで演奏を行った。

ヴラジーミル・ホロヴィッツ
アメリカデビューは1928年。
同じくアメリカデビューを飾ることになっていたトーマス・ビーチャムの指揮でチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を演奏した。
テンポの件で指揮者と意見が異なったまま演奏会が始まったが、聴衆の反応から第1楽章の途中で「このまま指揮者に従っていてはこの演奏会を失敗してしまう」と判断したホロヴィッツは次第にテンポを上げ、オーケストラをリードし始めた。
最終楽章でのコーダは圧倒的な加速で弾ききり、同曲の演奏を終了した。
演奏後割れんばかりの喝采を浴び、翌日の新聞では奇跡的なピアニストの登場が大々的に報じられた。

同年、アメリカでRCAと契約しレコーディングを開始した。
世界恐慌の影響でRCAは企業成績が悪化し、契約下のアーティストのヨーロッパレコーディングをHMVに許可したため、最初期の録音の多くは現在EMIが保管している。
リストのロ短調ソナタ、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番など、当時としては非常に珍しいレパートリーを録音しており、音質の限界はあるが、今なおこれらの曲の最高の演奏と評価する声も多い。

1932年、アルトゥーロ・トスカニーニとベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」で初共演を果たした。
後に、トスカニーニの娘ワンダと結婚している(ワンダの母語はイタリア語でホロヴィッツはロシア語であるため、当初家庭内ではフランス語で会話をしていた。アメリカ在住が長くなるにつれ、夫婦とも英語を使うようになった)。
1940年米国に居を構え、1944年には米国の市民権を獲得した。

健康上の理由などからしばしば公の活動から退くことがあった。
中でも、1953年のアメリカデビュー25周年記念リサイタル後間もなく突然すべてのリサイタルをキャンセルすると、それから1965年まで12年もの間コンサートを行わなかった。
12年ぶりのリサイタルは「ヒストリック・リターン」として知られ、ホロヴィッツ健在を世に知らしめた。
1960年代から1970年代前半にかけてCBSに意欲的に録音も行っており、この時期のショパン、シューマン、ラフマニノフ、スカルラッティなどのCDは、現在でも最高の名盤の一つに数えられている。

1970年代後半にRCAに戻った後は、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番、ピアノソナタ第2番、シューマンのグランド・ソナタ、リストのロ短調ソナタなどのライブ録音を残している。
70歳に達していたにもかかわらず、感興に乗った時の演奏は大きな感動を呼び起こすもので、時には「悪魔的」とさえ形容されることがあるが、その一方で好不調の波が大きくなったのもこの頃からで、年齢から来る技巧の衰えを隠すためか不自然な強弱やテンポ変化などがしばしば指摘された。
1982年にRCAとの契約を終えた頃、再び健康問題に悩まされ、当時のかかりつけの医師から大量の薬を処方されるようになった。
1983年の初来日時には「ひび割れた骨董」と評されたが、伝記によれば処方薬の影響がかなり大きかったとされている。

1985年、ホロヴィッツはドイツ・グラモフォンと専属契約を結び再びレコーディング活動を始めた。
この頃には、極度の技巧を要する曲に固執することをやめ、最弱音から強音まで完璧にコントロールされたデュナーミクと、独特のタッチとペダリングを使い分けることによって生み出される色彩豊かなトーンで聴衆を魅了し続けた。
なお、ホロヴィッツというと爆音を鳴らすピアニストのように言われることが少なくないが、実際には、最弱音が弱音でありながらホールの一番後ろでも美しく聴こえることにこそ特徴があり、これとの比較で強音が轟音に感じられるに過ぎない。
CDでは実際の演奏の魅力を伝えきれないと言われるゆえんである。
1986年には、およそ60年ぶりの祖国となるモスクワ、次いでベルリンでもコンサートを開き、絶賛された。その模様は今日CD等で発売されている。
初来日時の不調を気に病み続けていたホロヴィッツはこの年日本を再訪した。

指さばきの速さや難曲におけるミスタッチの少なさであれば、現代ではホロヴィッツ以上の技巧を持つピアニストは少なくない。
しかしながら、一般の聴衆だけでなく実演に接したほとんどの評論家やピアニストも「ホロヴィッツの音は独特であった」と口を揃えて証言しており、ピアノを歌わせるという点で彼に比肩しうるピアニストを見出すことは困難である。

結果的に最後のレコーディングとなった小品集のレコーディング(「ザ・ラストレコーディング」として発売)を終えた4日後の1989年11月5日、自宅で食事中に急逝、ミラノにある義父トスカニーニの霊廟に共に埋葬された。



華麗なる円舞曲 (ショパン)
華麗なる円舞曲(かれいなるえんぶきょく)作品番号34はフレデリック・ショパンのピアノ独奏曲集で作品34-1、作品34-2、作品34-3から構成されるワルツ集である。

作曲者早年の作品であり、華麗で演奏効果も高い。なお第1,2曲は1831年に、第3曲は1838年に作曲された。いずれも4分の3拍子。

作品34-1
Allegro vivace、変イ長調。
非常に華やかな曲想。序奏は属七の和音。ユニゾンの後主題が始まる。
規模内容共に充実したワルツ。
音階進行が急速に現れ、題名に恥じない展開。
中間部は変ニ長調-変ロ短調に転調するが、やはり華やかさが全曲を支配している。
右手は常に6度の和声であり、効果ある演奏には訓練が必要。

作品34-2
Lento、イ短調。ロンド形式。
前作後作の間にあって、陰鬱な感情が支配している。低音の空虚な5度音程の上に3度の主和音が主題を歌う。
演奏は比較的平易であるが感情表現として精神的な要素も必要である。
2回平行長調に転調する。
コーダでは左手でホ長調のアルペッジョを弾いた後、主題が回想される。

作品34-3
Vivace、ヘ長調。通称は「猫のワルツ」。
属七の和音を繰り返し序奏が始まる。
スタニスラフ・ブーニンの来日時に高速で演奏され有名になった。
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