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2009-06-29 01:02 | カテゴリ:リスト
フジ子・ヘミング
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

フジコ・ヘミング / ピアニスト
本名: Ingrid Fuzjko Von Georgii-Hemming(イングリッド・フジコ・フォン・ゲオルギー=ヘミング)
日本名:大月フジ子(12月5日生- 血液型:A型)

ロシア系スウェーデン人の画家・建築家のジョスタ・ジョルジ・ヘミングと、日本人ピアニストの大月投網子の間にベルリンで生まれる。
スウェーデン国籍(長らく無国籍の状態が続いた)。俳優大月ウルフは実弟。

幼少時代
5歳の時に日本に帰国。
当時、戦争への道にひた走り軍事色が濃くなる日本に締め出されるかのようにほどなく父ジョスタは家族3人を残し、一人スウェーデンに帰国してしまう。
以来、母と弟と共に東京で暮らし、母、投網子の手ほどきでピアノを始める。
また、10歳から、父の友人であり、ドイツで母のピアノを師事したロシア生まれドイツ系ピアニスト、レオニード・クロイツァーに師事。
以後、芸大在学時を含め、長年の間、クロイツアーの薫陶を受ける。

学生時代
小学校3年生の時にラジオに生出演し、天才少女と騒がれる。
青山学院高等部在学中、17歳で、デビューコンサートを果たす。
東京芸術大学在学中の1953年には新人音楽家の登竜門である、第22回NHK毎日コンクールに入賞をはたしさらに文化放送音楽賞など、多数の賞を受賞した。
東京芸術大学卒業後、本格的な音楽活動に入り、日本フィルなど多数のオーケストラと共演。
かねてよりピアノ留学を望んでいたフジ子だったが、パスポート申請時に無国籍であった事が発覚する。

その後、留学の機会を伺いつつピアニストとして音楽活動を行っていたが、30歳の時に赤十字に認定された難民として国立ベルリン音楽大学へ留学を果たした。
優秀な成績で卒業後、ヨーロッパに残り各地で音楽活動を行うも、生活面では母からの僅かな仕送りと奨学金で何とか凌いでいたという、大変貧しく苦しい状況が長らく続いた。
人間関係においても、日本でも外国でもどこに居ても外国人として疎外された。
フジ子は「この地球上に私の居場所はどこにもない...天国に行けば私の居場所はきっとある。」と自身に言い聞かせていたと話している。

ヨーロッパでのピアニスト時代
その間、ウィーンでは後見人でもあったパウル・バドゥラ=スコダに師事。
作曲家・指揮者のブルーノ・マデルナに才能を認められ、彼のソリストとして契約した。
しかしリサイタル直前に風邪をこじらせ(貧しさで、真冬の部屋に暖房をつけることができなかったためとしている)、聴力を失うというアクシデントに見舞われ、やっとの思いで掴んだ大きなチャンスを逃すという憂き目をみた。

既に16歳の頃、中耳炎の悪化により右耳の聴力を失っていたが、この時、左耳の聴力も失ってしまい、耳の病のためフジ子は演奏家としてのキャリアを一時中断しなければならなくなった。
失意の中、ストックホルムに移住。
耳の治療の傍ら、音楽学校の教師の資格を得、以後は、ピアノ教師をしながら、欧州各地でコンサート活動を続ける。
現在、左耳は回復してきている。

日本への帰国後のブレイク
母の死後、1995年に日本に帰国し、母校東京芸大の旧奏楽堂などでコンサート活動を行う。

1999年2月11日にNHKのドキュメント番組、ETV特集『フジコ~あるピアニストの軌跡~』が放映されフジ子ブームが起こった。
その後、発売されたデビューCD「奇蹟のカンパネラ」は、発売後三ヶ月で30万枚のセールスを記録し、日本のクラシック界では異例の大ヒットとなった。
第14回日本ゴールドディスク大賞の「クラシック・アルバム・オブ・ザ・イヤー」他各賞を受賞した。

やがて1999年10月15日の東京オペラシティ大ホールでの復活リサイタルを皮切りに本格的な音楽活動を再開し、国内外で活躍することとなる。
2001年6月7日にはカーネギーホールでのリサイタルを披露。
現在、ソロ活動に加え海外の有名オーケストラ、室内楽奏者との共演と活躍は続く。

人物
ヘミングは菜食主義者、クリスチャンとして知られている。
食物の中で特に好むのはじゃがいもであるとされる。

ピアノ演奏以外の趣味は絵画、裁縫、読書、水泳などで、バレエや映画の鑑賞も好んでいる。
絵に関しては幼少時から得意としており、今までに書き溜めた絵は本やCDのジャケットで使われている。
個展を開くこともある。(2001.2.5~2001.2.24 「幻の素描展」より)また愛猫家、愛犬家の動物愛護家ある。

語録

* 「私はミスタッチが多い。直そうとは思わない。批判する方が愚かしい」
* 「ぶっ壊れそうな鐘(ラ・カンパネッラの意)があったっていいじゃない、機械じゃないんだから」
* 「私の人生にとって一番大切なことは、小さな命に対する愛情や行為を最優先させること。自分より困っている誰かを助けたり、野良一匹でも救うために人は命を授かっているのよ。」
* 「一つ一つの音に色をつけて弾いている」

ラ・カンパネッラ
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ラ・カンパネッラ (la Campanella) はフランツ・リストが作曲した6曲から成る『パガニーニによる大練習曲』(Grandes Etudes de Paganini, S. 141) の第3番嬰ト短調。
日本語では「ラ・カムパネッラ」「ラ・カン(ム)パネラ」、「ラ・カン(ム)パネルラ」などとも表記される。
Campanellaとはイタリア語で「鐘」を意味している。その名の示すとおりニコロ・パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調Op.7、第3楽章のロンド『ラ・カンパネッラ』を主題にリストが作り上げた。

この作品の前にリストはすでにこの主題を用いて、イ短調のピアノ作品『パガニーニの「鐘」によるブラヴーラ風大幻想曲』(Grande Fantaise de Bravoure sur "La Clochette" de Paganini, S. 420) を1831年から32年にかけて作曲している。
彼はこの作品を改作し、『パガニーニの主題による超絶技巧練習曲』(Etudes d'Execution Transcendante d'apres Paganini, S. 140) の第3番変イ短調とした(有名な超絶技巧練習曲とは別の作品である)。
この版ではパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番ニ長調Op.6、第3楽章のロンドの主題も用いている。

なお、これらの主題は、パガニーニのオリジナルの主題とは一部変更されている。
パガニーニの原曲を音階に直すと、E-E'-E'-D'-C-C-H-A-G#-A-H-E-E-F-E-D-C-H.-A.-C-H.-A.-E.となるが、リストは『大幻想曲』以降、E-E'-E'-D'-C'-C'-H-A-G#-A-H-E-E-F-E-D-C-C-H.-A.-G#.-A.-H.と書き換えている。

最終版である『パガニーニによる大練習曲』の第3曲は今日最も有名な版であり、異名同音の嬰ト短調で書かれている。
リストが最初にピアノ曲に編曲したカンパネラはあまりにも難しすぎるために、やや簡単にしてあるのが現在の譜面である。
前2版の『パガニーニによる超絶技巧練習曲』も非常に技巧的で、リスト以外の人間には弾きこなせないと言われるほどの超難曲であり、録音に成功しているピアニストは、作曲から約170年経っている2009年現在で僅か4名のみである。
その為、最終版では他のピアニストにも弾けるように難易度を落としている。

軽快な速度で演奏され、1オクターブより広い音程を含む跳躍がある。
全体として、器用さ、大きい跳躍における正確さ、弱い指の機敏さを鍛える練習曲として使うことができる。
最大で15度の跳躍があり、この跳躍を16分音符で演奏した後に演奏者に手を移動する時間を与える休止がないまま2オクターブ上で同じ音符が演奏される。
ほかにも薬指と小指のトリルなどの難しい技巧を含む。

ちなみに、リストは最終版を書き上げる前の1845年、『パガニーニの「ラ・カンパネラ」と「ヴェニスの謝肉祭」の主題による大幻想曲』S700とその改作版『パガニーニの主題による大幻想曲』S700を作曲しているが、こちらはほとんど演奏の機会はない(レスリー・ハワードのリスト全集にのみ収録)。

ラ・カンパネッラは他の作曲家・演奏家によっても再編されており、フェルッチョ・ブゾーニによるものなどが有名である。

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