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2008-06-02 00:12 | カテゴリ:ショパン
ウラディーミル・アシュケナージ
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ウラディーミル・ダヴィドヴィチ・アシュケナージ(ロシア語: Влади́мир Дави́дович Ашкена́зи、ラテン文字転写例: Vladimir Davidovich Ashkenazy、1937年7月6日 - )はソヴィエト連邦出身のピアニスト・指揮者である。
ユダヤ人コミュニティの一つであるアシュケナジムに由来する姓が示す通り父はユダヤ系だが、母は非ユダヤ系のロシア人である。

現在は妻の故国であるアイスランドの国籍を持ち、スイスに在住している。

略歴
1937年にロシアのゴーリキー(現在のニジニ・ノヴゴロド)の音楽家の家庭に生まれた。
6歳でピアノを始め、2年後にはモスクワでデビュー演奏会を開いた。
9歳の時にモスクワ音楽院附属中央音楽学校に入学し、アナイダ・スンバティアンに師事した。

1955年にはワルシャワで開催されたショパン国際ピアノコンクールに出場し2位に輝いた(優勝はアダム・ハラシェヴィチ)。
この時にアシュケナージが優勝を逃したことに納得できなかったアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリが審査員を降板する騒動を起こしたことはよく知られている。

同じ年にモスクワ音楽院に入学、レフ・オボーリンやボリス・ゼムリャンスキーに師事した。
翌1956年にはエリザベート王妃国際音楽コンクールに出場して優勝を果たし、これを機にヨーロッパ各国や北米を演奏旅行してセンセーショナルな成功を収めた。
EMIやメロディアからレコードも発売され、音楽院在学中から国際的な名声を確立した。

1960年にモスクワ音楽院を卒業、翌年にはモスクワ音楽院に留学していたアイスランド出身のピアニストの女性と結婚した。
1962年にはチャイコフスキー国際コンクールに出場しジョン・オグドンと優勝を分け合った。

1963年にソヴィエト連邦を出国しロンドンへ移住、以後ソ連のあらゆる公式記録からその名を抹消された。
1968年には妻の故国アイスランドのレイキャヴィークに居を移し、1972年にはアイスランド国籍を取得した。

1970年頃からは指揮活動にも取り組み始め、1974年には指揮者として初の録音を行った。
指揮活動の初期に共演したオーケストラにはロンドン交響楽団、フィルハーモニア管弦楽団、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、クリーヴランド管弦楽団などがある。

1987年にはロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任し、1994年までその座にあった。1989年11月にはロイヤル・フィルを引き連れて改革の進むソヴィエト連邦に26年振りの帰郷を果たし、モスクワ音楽院大ホールでコンサートを行った[2]。そのほかこれまでにベルリン・ドイツ交響楽団、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団、NHK交響楽団の音楽監督、首席指揮者のポストを歴任している。

現在はスイスのルツェルン湖畔に居を構え、シドニー交響楽団及びEUユース管弦楽団の音楽監督として主に指揮に重点を置きつつ精力的に活動している。

ピアニストとして
身長168センチと小柄な体格だが、演奏至難なパッセージも楽々と奏出してしまう卓越したテクニックの持ち主である。
その洗練された音色と端正で中庸を得た解釈は彼の音楽を万人に親しみやすいものにしている。
レパートリーは極めて広汎にわたり、クラシック音楽のスタンダードなピアノ曲の大部分を網羅しているといって過言でない。
録音の量も膨大に上り、そのいずれもが高い水準を誇っている。
こうしたことからアシュケナージは20世紀後半の最も重要で傑出したピアニストの一人と目されている。

ショパン・コンクールをきっかけに国際的な名声を確立した経緯もあってショパン作品には精力的に取り組んでおり、その評価も高い。
音楽評論家の柴田龍一は彼の膨大なキャリアの中から特に重要な録音の一つとしてショパンの練習曲全集を挙げ、「このピアニストのテクニックの素晴らしさを最高度に浮き彫りにした演奏といえるが、ここに示された彼のテクニックは、凄みや冴えで聴き手を圧倒するものではない。
彼は、この難曲を少しのごまかしもなく余裕をもって奏出し、そのスムーズな語り口や美しい仕上りによって、聴き手にエチュード集の各曲に秘められた音楽的魅力を満喫させてくれている」と評している。

またラフマニノフ作品に献身的ともいえる姿勢で取り組んでいることも特筆すべきであり、協奏曲全曲とピアノ独奏曲のほとんどをレパートリーとしている。
ピアノ協奏曲第3番に至ってはピアニストとして5度も録音している(2種類のカデンツァを弾き分けていることも注目される)。
アンドレ・プレヴィンとの共演による2台のピアノのための作品の録音や、ソプラノのエリーザベト・ゼーダーシュトレームとの共演による歌曲全集の録音も貴重な存在である。

室内楽にも積極的に取り組み、特にヴァイオリニストのイツァーク・パールマンやチェリストのリン・ハレルと数多く共演している。

指揮者として
チャイコフスキーやラフマニノフ、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチなどのロシアもののほか、ベートーヴェンやシベリウス、リヒャルト・シュトラウスなどの作品を主要なレパートリーとしている。
モーツァルト及びベートーヴェンのピアノ協奏曲は弾き振りで全集を録音している。

指揮活動においてもラフマニノフ作品は重要な位置を占めており、彼の指揮者としての存在を世界に認知させたのは1980年代初頭にコンセルトヘボウ管と共演したラフマニノフの交響曲、管弦楽曲の録音だった。
このうち合唱交響曲「鐘」は後にチェコ・フィル及びプラハ・フィルハーモニー合唱団との共演で再録音し、交響曲と交響詩『死の島』、交響的舞曲も2007年にシドニー交響楽団と再録音を果たしている。
また協奏曲は指揮者としてもジャン=イヴ・ティボーデやエレーヌ・グリモーなどとの共演で演奏している。
現在ラフマニノフ協会の会長の任にあり、世界各地で「ラフマニノフ・プロジェクト」と銘打った企画を開催するなど(東京では2002年暮れに開催)、ラフマニノフ作品の普及、紹介に努めている。

日本との関わり
初来日は1965年のことで、以後は頻繁に日本を訪れて日本の音楽ファンにとっても馴染み深い存在となった。
2000年10月に初めてNHK交響楽団の定期公演の指揮台に立ち、2004年から2007年までは音楽監督を務めた。退任後は桂冠指揮者に任じられている。

就任を記念して放送されたNHKの特集番組では、ルツェルン湖畔の自宅に和室がしつらえてあり、様々な日本の文物が飾られている様子が紹介された。

2007年公開の日本のアニメ映画『ピアノの森』にはピアノ演奏・ミュージックアドバイザーで参加した。

練習曲 (ショパン)
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

フレデリック・ショパン作曲の練習曲(れんしゅうきょく)は、ピアノのための練習曲の中で最も有名なものの一つ。全27曲ある。
練習曲ではあるが音楽的にも完成された作品であり、弾きこなすには高度な技術と芸術的センスが必要である。
演奏会でも取り上げられることが多く、愛称がついている作品も多い。
(なお、愛称はどれもショパン自身によるものではない。)

12の練習曲 Op.10
初版は1833年に発表された(一部は1829年には既に作曲されていた)。
その時ショパンは23歳、当時パリのサロンでは既にショパンは有名な作曲家、ピアニストとして認知されていた。
この曲集は当時作曲活動にひたむきであったフランツ・リストに捧げられ、二人が知り合うきっかけにもなった。

* 作曲年代:1829年~1832年
* 出版:1833年

第1番 ハ長調
「滝」や「階段」の愛称で呼ばれることがある。
ほとんどが全音符オクターブ演奏である左手の上に右手のアルペッジョ、広い分散和音から成る。
1916年出版のシャーマー版の巻頭言では、アメリカの音楽評論家のジェームス・ハネカー(1860-1921)がこの曲の持つ、めまぐるしい音の上昇と下降の催眠性が目と耳にもたらす効果を「Carceri d'invenzione」(「prisons」、1745、1761)のジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ画の恐怖の階段と比較した。

  



秘密

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